まとめて ①  これまでのところを、まとめて読んでみます。

 

日の名残り」  カズオ・イシグロ

プロローグ 1956年7月  

 

やはり行った方がよろしかろうと思えてきたのでございます。

つまり、このところ何日か、頭から離れなかった視察旅行に出かけることでございます。

視察というのも、なんでございますが、私一人で出かけるわけでございまして。

しかも、ファラディ様のあの豪華なフォードの使用の許可も得ております。

ただでさえ素晴らしい我が国の田園地帯をドライブするなど想像するに余りございます。しかし、それは一方で、このダーリントンの邸館を五日も六日もほったらかしにすることでもございます。

申しておかねばなりませんが、それは私からの申し出というより、ファラディ様のご言いつけだったのでございます。二週間ほど前、私が蔵書室で、たまたま肖像画のほこりを払っておりました。

その時のことは実際に、はっきり覚えているのでございますが、私は脚立にのぼって、ウェザビー子爵の肖像画に向かっておりました。そこへファラディ様が棚に戻す書物を抱えて入ってこられたのでございます。

私がいることに気付かれて、ちょうどいい機会だというように、八月から九月にかけて五週間ほどアメリカに帰ってくることにしたよと、申されました。

そうおっしゃって、テーブルに本を置き、長椅子に身を沈めてから、足を伸ばされたのでございます。

ご主人様がおっしゃられたのは、それから、私を見上げられてのことでございました。

「といっても、留守の間ずっと、君をこの家に縛り付けておこうとは考えていないんだよ。

クルマでも引っ張り出して、二三日どこかのんびりと行って来たらどうだい。

たまにはのんびりしなきゃね」と、おっしゃってくださいました。

その時はいきなりのお話でしたので、どうお答えしてよいのか全く見当がつきませんでした。

とりあえずお礼だけは申し上げましたが、ご主人さまのお話については、行くかどうかはっきりとしたご返事を差し上げなかったと覚えております。

「これは命令だよ。君こそ休みを取らにゃいかん。ガソリン代はもちろん僕がもつ。

だいたいね、君たちはいつもこの大きな邸館にに縛り付けられていて、朝から晩まで客の世話に追いまくられてばかりだろ。自分自身のね、この美しい国をゆっくり見て回ったことはあるかい」と、お続けになりました。

私の主人がこの手の質問をなさるのは、初めてのことではございませんでした。

常々、気にかかっておいでになられたようです。 

正直に申せば、このとき脚立の上の私には、答えらしきものが浮かんでおったのでございます。

その答えらしきものとは、私どもの職業の者は、たしかに、我が国の素晴らしいところを見ていませんが、つまり、鄙びた土地を巡ったり、観光の名所を訪ねたりこそはしていませんが、それよりもさらに素晴らしいイギリスを目にしておりました。というのは、私どもは邸館から一歩も外へでておりませんが、世界中の力のある方々が、ここにお越しだったからでございます、となろうかと。

もちろん、そう申し上げるわけにはまいりません。もしファラディさまにお伝えしようとすれば、分を越えた言いようにならないとも限らないからでございます。

そこで、私はただこう申し上げました。

この邸館の中にいたからこそ、永年にわたり最高のイギリスを見てこられました。それこそが私の役得でございました、と。

 

まだプロローグが始まったばかり。どうなるんでしょうね。

1956年というのは、第二次世界大戦が1945年に終わってから、10年余りが過ぎたころです。多少は落ち着きが出てくるとともに、東西の冷戦が顕在化し、それとともにイギリスの力の衰えが見えるようにもなってきました。

つまり、イギリスだけの考えで世界の方向が決まらなくなってきたわけです。その一翼を担っていたダーリントンの邸館の役目が終わりつつあることです。主役だった貴族はもちろん、そこを職場としていた執事、召使い、庭師なども次第に時代の波にのまれていくということです。

隠れていた政治権力内部の情報がマスメディアの発達とともに、容易に大衆のもとに届くようになってくるわけで、情報化社会、大衆化社会が始まり始めた時期、夜明けといえるようなときの話ですが、前の体制から見ると、その体制の中心に、別の形で存在していた執事のスチーブンスから見ると、明るさはなくなって、名残りがなんとなく・・ということになるのですね。

それからさらに60年がたっています。戦後史も現代史といっていいように遠くなってきましたが、私たちは日本から見るばかりで、イギリスから見たらなどとは考えてはきませんでした。

しかも、イギリス人とはいえ、日本人のDNAをもつ人の目から見るとどうなるのでしょうか。この先が楽しみです。