208番です。

 

And there were others less distinguished, perhaps, but whose lively presense made any visit memorable;

 

この文はセミコロンで終わっています。内容は次の文につづくのですが、文法的には、ここで切れます。

ということで、ここまでを分解します。

 

① And    there were others  接続詞 there is 構文
②                     less distinguished, others に係る形容詞句
③ perhaps,    but whose lively presense whose = others'
④             made any visit memorable;  過去分詞③に係る

 

こんな風になるでしょうか。

 

①は、 there is 構文 ですが、主語は複数で、過去形になっています。

②の過去分詞が others にかかっています。はっきりしない 他の 方々 があった と直訳できそうです。

「他の方々は はっきり 覚えていない」ということですね。来ていたことは間違いないが、それが誰かははっきりしない、という感じです。

というか、スチーブンスはもちろん名前などははっきり記憶しているのですが、いちいち上げる必要はないでしょう、という感じではないかと思います。

で、その感じを説明しているのが、③④ということです。これも、there is 構文ですが、今度の主語は whose lively presense となります。つまり、「その誰かの実際の出現(出席、登場、参加)があった」となります。

そして、それが④、「どの参加も印象深かった」というわけですね。印象深いのですから、ちゃんと覚えているのです。

perhaps は、丁寧さを表すと辞書に出ていますが、何が何でも日本語に当てはめる必要はなさそうです。和訳時に、用言部分に丁寧さを表す表現をすればいいと思われます。

話しかけている相手の名前などと同じように扱えばよさそうです。つまり、敬関詞的に扱えばよさそうです。

もちろん、たぶん、という気持ちは残っているはずですが、but という気持ちも同時にあるわけで、言葉はやはり注意深く選ばれているのだなあ、と詠嘆してしまうわけです。

活字になってしまうと、抑揚、強弱などが消えてしまいます。その消えた何かを伝えようとすると、言葉をどう選ぶかが、重要になるということだと思います。

 

ということで、訳してみれば、

「いちいちどちらがとは申しませんが、どなたのご参加も深く記憶に残っております」

としました。