1-43です。

 

'I can see you're in good shape for your age, sir.

 

住民の話したことが始まります。引用符から始まっているのが、それを示していますが、閉じかっこは1-45番の文についています。

 

特に煩雑な文ではないのですが、sir には気をつけてください。

文法書などでは一般的に、間投詞として分類されています。と言っても、文法書の終わりの方でついでのような扱いをされています。

感情を表す oh や ah などは「おお」とか「ああ」になり、 sir や Mr は 「呼びかけ」に訳されることが多く、「旦那さん!」とか、「旅のお方よ」などと訳されることと思います。

そう訳すと日本語としては不自然になってしまいます。つまり、ひと工夫が必要だと感じるところなのです。

落ち着いて当該の英文を眺めると、sir というのは、住民がスチーブンスを見たときに、「sir」と認識したことを意味しています。そういう人に対しては、日本語の場合用言部分に敬語を使い、相手に対する敬意の程度を表します。相手に応じて言葉遣いが変わるのです。

相手が小さい子供なら敬語を使う必要はなく、「でちゅ」などの赤ちゃん言葉を使ったり、相手が友だちの場合も同様で、「じゃん」とか「だろ」などを使います。

語尾部分を変化させて、相手をどういう立場の人と認識しているかを表現している、この部分は敬語部分と言われていますが、実は必ずしも敬意だけを表してはいません。

むしろ、敬意のきっかけになる相手との関係を表していると考えるべきだと思います。

親疎、老若、長幼、上下、など人間関係は、さまざまな要素があり、それらに応じて言葉遣いが変わってくるのは自然な成り行きです。

それを表現する時に、英語の場合は、相手の認識を sir とか Mr などの名詞で表し、日本語の場合は、文末の用言部分の変化で表すということです。

文法の規則の違いを訳に取り入れる必要があると考えるわけです。

ということで、こういう sir などの言葉は、私は「敬関詞」と名付けています。

敬意と関係を表している言葉と考え、それを使うのに適した日本語の用言部分の訳に組み込むのがいいと考えます。

 

ということで、今回は

「年の割には、丈夫な姿に見えていますよ、旦那さん」

ではなくて、

「心配は無用でしょう、お年のわりには、丈夫そうに見えますよ」

とします。

「でしょう」とか「見えますよ」に、相手に対する敬意を含ませたつもりなのですが。